現代コミュニケーション考察

友人に、久々に長いメールを打った。
もともと自分は、携帯メールより以前にPCでのメールという文明がやってきたわけで、
文字数制限とか、ファイルサイズとか気にせず長々メールをしてきた人種である。
ISDN回線のくせに、JustSystemのカラメルってメールソフトのテンプレでとてつもないサイズのメールをやりとりしていた。
おかげでDoCoMoの500文字制限にはいつも泣かされた。そんな奴である。
今でもメールは短くて、限られた文字数で訳のわからない内容が送られてくるのはDoCoMoのせいだと思っている。うん。


それ以前には、自分は文通という文明も経験しており、
つまりメールは、知り合いに対する非音声コミュニケーションの一部であると考えている。
まぁ、筆跡から伝わるものがない以上、手紙以上に制限されたコミュニケーション手段であることは間違いない。
この辺の精神論は今でも引き継がれていて、mixiにしろ何にしろ、
全くの他人(Realな世界で会ったことのない人)と簡単に何らかの関係を作れる今の世界には、
時代が変わったのか、自分が堅物なのかと首をかしげることばかりである。
まぁそれでも、掲示板や何やらに書き込んで質問程度ならしたことがあるが、その程度である。

ついでに言えば、メールがリアルタイムなコミュニケーション手段としての世界を誤って確立してしまったのも携帯のせいで
自分の周りにも一人一台持っているのが当たり前、いつも持ってるのが当たり前
連絡したらすぐレスポンスがあるのが当たり前的な世界を築いてしまっている。
誰がいつ保証したわけでもないのに、それが当たり前って、不思議な世界である。

携帯はさらに、リアルコミュニケーションの世界にも介入してくるようになり、
相手の都合よりもさらに優先順位が高いというお偉い席に座っているのである。
僕はそれがいやで、誰か他人と一緒にいるときは、携帯よりもその空間を優先することにしている。
これ以外と難しいんだよね、自分が意識的にしていても、相手が携帯使い出したりとかw
まぁ、価値観はそれぞれだからその点は構わないんだけどね。

携帯様の、メールのコミュニケーションの取り方、今一度考えなければなぁ。

書きたかったことはこんなことじゃないんだけど、まぁいいや。
きっとまとまらないな、こりゃ。